番号 |
種類 |
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作者 |
場所 |
説 明 |
備考 |
1 |
書 |
止於至善 |
奥田義人 |
校長室 |
至善に止まるにあり..
小山小学校は明治6年12月(1867)に、小山村円光寺内に開校した止善学校に始まる。校名は中国の古書「大学」の「在止於至善(至善に止まるに在る)」に由来する。「この境地に達するには人の道を求めてやまず、人生の目的を見つけ理想に向かって一歩また一歩確実に歩み続けることを念願する」という意味。
この書は、大正2年創立40年記念式によせて、当時の文部大臣奥田義人(おくだ よしと1860ー1917年)に書いてもらったもの。奥田は日本の政治家、官僚、法学博士、男爵、中央大学創立者・学長。
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大正2年
(1913) |
2 |
画 |
原嘉道肖像画 |
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校長室 |
原嘉道(はら よしみち(かどう)は、本校の卒業生で幼名は亀太郎。原は、官僚、弁護士、法学者、政治家。田中義一内閣の司法大臣や枢密院議長を歴任した。男爵、法学博士。中央大学学長。1867年2月18日(慶応3年)ー1944(昭和19年)
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3 |
書 |
忠信以得之 |
諸橋轍次 |
校長室 |
忠信以ってこれを得.
中国の古書「大学」の「忠信以得之、驕泰以失之」による。人々の支持を集めるには、「忠信」を必要とし、逆に、人々の指示を失うのは、「驕泰」が原因である。忠信は「忠」とは自分を欺かないこと。「信」とは、うそをつかないという意味。従って「忠信」とは誠実、真面目という意味。
諸橋 轍次(もろはし てつじ、1883年6月4日 - 1982年12月8日)は、漢字の研究者で、『大漢和辞典』や『広漢和辞典』の編者。 |
昭和7年
(1932) |
4 |
書 |
不如学 |
原嘉道 |
昇降口 |
昭和16年小山国民学校としての出発にあたり、当時の城本校長は「学如不」「労厭不」「息無誠至」「心一協和」の4項を掲げた。
「不如学」はまなぶにしかず。論語。思索にふけっても得るものはない。やはり学問を修めた方がよい。
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S16 |
5
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書 |
至誠無息 |
原嘉道 |
昇降口 |
「至誠やむことなし」。「この上ない誠の心をもって生涯を貫きなさい」という意味。
小山国民学校当時の校訓の一つ至誠無息」は、中国の古典「四書」の一つ「中庸」の中に出てくる言葉。 |
S16 |
6 |
書 |
飛龍在天 |
塚田清策 |
校長室 |
飛龍天にあり。
古代中国に生まれた書、五経の一つに易経(えききょう)がある。易経は森羅万象の変化と人間のモラルを結びつけて説く書で占いにも用いられる。その中に「飛龍在天(ひりゅうてんにあり)利見大人(たいじんをみるによろし)」という文言がある。「時と所を得、まさに絶好調の時です。有識者の意見を聞いて行動すれば幸運をもたらす。」という意味。
塚田清策は元信州大学教育学部教授 |
昭和39年度卒業生寄贈 |
7 |
書 |
撥雲尋道 |
川村驥山 |
体育館 |
雲を撥(はら)いて道を尋ぬ 意味は:雲をおしひらいて道をさがす。
川村驥山明治15(1882)〜昭和44(1969) は静岡に生まれ、長野市篠ノ井に疎開したのを機に生涯を閉じるまでその地で過ごした書聖 |
昭和30年 |
8 |
日本画 |
臥龍の春 |
清水 博 |
昇降口 |
清水博は須坂市北原町の日本画家。 |
平成6年度卒業生寄贈H7/3 |
9 |
油絵 |
龍ケ池の秋 |
丸田隆則 |
昇降口 |
丸田隆則(まるたたかのり)は洋画家。 新構造・日美家連会員。昭和13年生まれで人物や風景を得意とする。 |
丸田隆則寄贈
H6/3 |
10 |
油絵 |
埴輪のある林 |
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昇降口 |
北沢猛郎は1928年生まれ。新構造社長野支部長。小山小学校に在職した。
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昭和54年度卒業生寄贈
S55/3 |
11 |
絵 |
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会議室 |
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12 |
切り絵 |
止善学校屋根鬼瓦 |
吉原澄悦 |
会議室 |
吉原澄悦は須坂市出身の切り絵作家。作品集に「きり絵の四季」「信濃の街道」など。
小山小学校にある「止善学校屋根鬼瓦」など6点の切り絵は、「小山小学校百年史(昭和49年発行)」の扉絵のために制作されたもの。 |
S48 |
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13 |
書 |
校歌
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北島茂 |
体育館 |
小山小学校の校歌は昭和28年に制定された。作詞は石森延男、作曲は下総ユ一。2人は唱歌「野菊」の作者である。北島は須坂市出身の書家。
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S39年度卒業生寄贈 |
14 |
書 |
読書は心の糧 |
石森延男 |
図書館 |
石森は小山小学校の校歌の作詞者。 |
S28 |